テリー・メルチャーとテート殺しの関係

gotanda62004-11-22


テリー・メルチャー氏がなくなったらしい。合掌。
KYODO NEWS

テリー・メルチャー=音楽プロデューサー。ドリス・デイの息子。
60年代前半は、ブルース・ジョンストンらとの活動など、ビーチ・ボーイズ周辺のサーフィン・ホットロッドの分野で活躍。1965年にはコロンビア・レコードA&Rマンとして、Birdsを見出し、『ミスター・タンブリンマン』のプロデュースを手がけている。60年代の西海岸音楽の重要人物で、多分ソフトロック好き(僕は疎い分野)、ビーチ・ボーイズ好きの間ではよく知られた人物だ。
一方母親が米を代表する歌手の息子で、絶頂期のビーチ・ボーイズに囲まれていた彼は当然酒池肉林の“ワイルド・パーティ”な人物でもあった。ある意味60年代の西海岸の暗黒面を象徴している人物でもあるので、僕はそっちの話に触れてみる。
ビーチ・ボーイズが一時期チャールズ・マンソン接触があったのは有名な話。マンソンに心酔していたデニス・ウィルソンは、一時期彼らを自宅に引き入れていた。そして、歌手デビューを目論むマンソンにテリー・メルチャーを引き合わせている。その当時メルチャーが住んでいたのはロスの高級住宅街シエロ通り10050番地。マンソンとそのファミリーはここでもドラッグ、フリーセックスを用いたパーティ漬けの日々を送っていたようだ。そして、ここは後にシャロン・テート殺しの惨状の現場となる。
ヒッピーのコミューンを作り、サイケデリックな教祖となったチャールズ・マンソン。その華やかな生活は、レコードデビューの話が潰えた辺りから破綻へとかわっていく。彼とそのファミリーは、ビートルズ・ナンバー『ヘルター・スケルター』から“最終戦争”という啓示を受け、次第に妄想にとり憑かれていく。事件が起こったのは、1969年8月。テリー・メルチャーへの逆恨みなのか、勝手を知った家だったからなのかは知らないが、マンソン・ファミリーたちは、夜中にシエロ通り10050番地を襲い、シャロン・テートらその場にいた5人を殺戮。壁には血で“HELTER SKELTER”の文字を残す*1。しかし、この当時すでに10050番地にメルチャーは住んでおらず、米に移住し『ローズマリーの赤ちゃん』を撮ったばかりのロマン・ポランスキー*2が妻のテートと住んでいた(事件当時、ポランスキーは撮影でロンドンにいた)。
その後の70年代のメルチャーについては、よくしらないのだが、ぱっとしない時期だったようだ。駄目な時期のビーチ・ボーイズのプロデューサーを務め、1980年代にはドラッグでボロボロになっていく。しかし1988年、ブライアン・ウィルソン抜きで製作された『ココモ』の作曲に参加。このビッグヒットで復活を果たしている。
先になくなったラス・メイヤーの『ワイルド・パーティ』はこのテート事件をモチーフにしている。この映画に登場する音楽プロデューサーで、豪華邸宅の持ち主“Zマン”のモデルはフィル・スペクターだとされている。しかし、惨劇となった邸宅を持つ音楽プロデューサーという意味では、むしろテリー・メルチャーのほうが近いかもしれない。
また、惨劇の現場となったシエロ通り10050番地は、事件以降『テート・ハウス』と呼ばれナイン・インチ・ネイルズのセカンドアルバム『ザ・ダウンワード・スパイラル』が録音されている。ちなみに、この事件で逮捕されたマンソン及びそのファミリーは今でも刑に服している。
【参考資料】

【追記】新生“deadman”にさらなる詳細とリンク集がありました。
http://deadman.g.hatena.ne.jp/mohri/20041122

*1:ちなみに、日本語訳すれば“あわてふためき”程度の意味の歌でしかない。
関連記事= http://d.hatena.ne.jp/hinakiuk/20040926#p2

*2:2002年に『戦場のピアニスト』でアカデミー監督賞をもらうも、別件(少女暴行だっけ?)で逃亡犯扱いになっており入国できなかった。