インタビューのまとめは新聞記者の技術に学べ

ダメなインタビュー記事の例(E.L.H. Electric Lover Hinagiku)

たいていのひとはこのときのタモリほどに理路整然と喋る才を持ち合わせていないので、そのまま載せても意味がなかなか取れない冗長な会話にしかならない。インタビュアーは、インタビューイの意図するところを変えずに、書き起こしたテクストに手を加えていくのである。

僕もインタビューの起こしはよくやるんですが、なるべくその人の口調のまま使おうと心がけます。しかし、それではダメなんですね。いかに削るかが技術ということになります。
そういうインタビューの再構成の技術というのは、新聞記者が圧倒的に抜きん出ています。僕が、ケータイ小説の国語力についてのインタビューを受けた際に感動した経験をここに公開します。

記者と僕の間の会話っていうのは、大体こんな感じ。

記者 ケータイ小説の国語力は下がっているんでしょうか?

 多くのケータイ小説の文章力が低いのには理由があって、編集者が著者の原稿をほとんど直さないで、そのまま出版されるからそう見える。さすがに編集者も誤字脱字レベルは直すと思いますけど、てにをはレベルだとほとんど直さないと聞いています。それどころか改行が多いとか、横書きであるとか、そういったところまで著者の書いたモノを尊重して本にしたのがケータイ小説です。
なぜ、そうするかというと、読者がそれを求めているからです。純粋なものを求めるケータイ小説の読者は、書き手の純粋な気持ちを、なるべくそのままの形で受け止めたいと考えている。間に入る出版社が手を入れることは、純粋さがけがされてしまうと感じるようです。
これは、90年代以降、歌謡曲がJポップと呼ばれ、歌手がアーティストと呼ばれるようになったときに起きたことに似ています。歌謡曲の時代は作詞家がいて、訓練を経て磨き上げられた歌詞が付けられた。だけど、アーティストと呼ばれる人たちが出てくると、彼らは自分で歌詞を書くようになった。そうなると、歌詞は歌い手の主観になる。そして、訓練を経ていないし、プロデューサーなどのチェックも経ないので、どうしてもつたないものになる。だけど、それこそがアーティストの生の言葉ということになって、むしろもてはやされる。
一見、ケータイ小説の国語力が下がっているように見えるのは、これと同じ構図が存在するから。別に、今の国語教育のレベル低下とはあまり関係ないと言えます。

もちろん、こんなに理路整然と話したわけではないのだが、ざっとこんなことを答えたはず。
その会話が、実際の新聞に掲載された時にどうまとめられるのか。実際に記事になった部分の全文はこう。

ケータイ小説的。』の著書があるライターの速水健朗氏(34)によると、ケータイ小説は改行が多く、語彙(ごい)や風景描写が少ない一方、次回配信分をどう読ませるかを意識して展開が早い。「文章力は低いが、既に携帯で読まれており編集者は原文をほとんど手直ししない」という。

確かに僕が言ったことをそのまま正確に切り取りって、短くまとめていますね。それでいて、前後の文脈はまったく崩れてる(笑)。これが新聞記者の技術です。ゲラは一切見せないという辺りがライフハックというやつでしょうか。
まあ、新聞の取材は何度か受けましたが、このくらいは日常茶飯。ユーモアを解さない人は新聞の取材は受けちゃダメってことですね。