「萌え」と「言語的奇形」と「ジャパゆきさん」について考えてみるにょ!

 
 
“キャラ萌え”記号のひとつに、でじこの「〜にょ」みたいな“変な語尾”っていうのがあるんだけど、突如これについて調べたくなってきた。
ウィキペディアの“語尾”のページには「アニメにおける語尾」という注釈がついている。

アニメや美少女ゲームなどのキャラクターが、特徴的な語尾をつける歴史は意外に古い。近年では萌え属性の一つとされており、これこそが日本語の進化であるという意見もある。代表例は以下。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
これを書いた人は「特徴的な語尾をつける歴史は意外に古い」しながら、中途で投げ出してしまっている。なので「意外と古い」の「以外」がどのくらいなのかも見当がつかない。『源氏物語』くらいまで遡るのか、『ブラックジャック』の“ピノコ”程度なのかがよくわからない。
 東浩紀がこの「にょ」について何か言ってたかもと思って『動物化するポストモダン』を繰ってみると“萌え要素”という段落の中で少しだけ触れていた。

でじこ猫耳をつけて「そうだにょ」「疲れたにょ」と話すのだが、それは猫耳や「にょ」そのものが直接に魅力だからなのではなく、猫耳萌え要素で、特徴ある語尾もまた萌え要素だからであり、さらに正確に言えば、九十年代のオタクたちがそれを要素だと認定し、そしていまやその構造全体が自覚されてしまっているからなのである。

歴史に触れるくらいしてもいいのになあ(メイド服は『くりぃむれもん』を経由しているみたいな程度でも)。
多分、『Dr.スランプ』の「んちゃ!」と『うる星やつら』のラムちゃんの「だっちゃ」辺りが直系で、その少し後のノリピー語あたりも系譜としてあるのかなあ。もっと遡ると前述の“ピノコ”、さらに遡ると『オバケのQ太郎』に出てくるO次郎の「バケラッタ」だったり『サザエさん』のいくらちゃんの「ばーぶー」だったりする。これは完全に幼児語だし、スヌーピーしか解読できない“ウッドストック語”の流れなので除外かなあ。ちなみに『ヴァーチャル日本語 役割語の謎 (もっと知りたい!日本語)』という本には「〜にょ」についての考察が載っているらしいです。

一方、言語的におかしいといえば30年以上日本で仕事をしながら日本語が上達していないアグネス・チャンなんだけど、彼女が1972年にデビュー曲として吹き込んだのが『ひなげしの花』。この曲は「おっかのうっえー ひっなげしーのはーながー」と歌われているんだけど、元々の作曲者(森田公一)の意思では「おかーのうえー ひなーげしーのはなーがー」だった。だけどアグネスは何度歌っても「おっかのうっえー」にしかならず結局録音してしまったらしい。もちろんネイティブではないアグネスが舌っ足らずで歌ったからこそのヒット。言語的奇形がヒットにつながったという意味では、“でじこ”の先祖はこのアグネスといってもいいかもしれない。
考えてみれば、外国人(または日本語がネイティブでない人)に日本語で歌わせるというジャンルが歌謡界には存在し、90年代のビビアン・スーなりゼロ年代ではBoAというように現代に引き継がれているし、アグネス以前にもヘドバとダビデの『ナオミの夢』とかゴールデンハーフの『チョット マッテ クダサイ』とか、舌っ足らず系のヒットは少なくない。そして欧陽菲菲テレサ・テンジュディ・オングと日本語で歌うことによって大御所となっていった歌手も少なくない。
なぜ時代を超えてこのジャンルが支持されるのかというと、ジプシーが芸能の民であることや、現代の米のチャートの大半が黒人音楽であることや、紅白の出場歌手の出身地を見ると沖縄が圧倒的に有利なことなどと関係あるのだろう。この辺は「萌え」が何かを考えることと切り離しては考えられない問題か?
なんかまとまらなくなってきたので、とりあえず読みかけだった下の本を完読することにします。『リズム&ブルースの死』のネルソン・ジョージが社会史と黒人音楽のかかわり、そしてなぜ黒人音楽(ヒップホップ)が現代に生き残っているかについて書かれた本です。

ヒップホップ・アメリカ

ヒップホップ・アメリカ