西島大介/著『凹村戦争』読了。

凹村戦争』(ASIN:4152085568
舞台は、ラジオの電波も届かず、新聞も半月遅れで届く凹村。この平凡な日常が支配する村に、“X”の形をした物体が落ちてくる。
主人公は、問題意識に対して真正面から向き合おうとするバカ正直な中学生凹沢。その友だちで、「宇宙は見えるところまでしかない」をモットーに、状況を変えることができないことをただ受け入れるクールな凹伴ハジメ。そして、ただただ自分本位で物事を考える、刹那的な凹坂カヨ。彼ら3人に加え、出戻り女教師と村の唯一の文化施設『TATSUYA』の店長。この5人が登場人物。
ハジメに借りたH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を真に受けて、物体Xを火星人の襲来と受け止め、皆に真実を伝えようとする凹沢。これに対し、主人公を村に檻に閉じ込めようとする『プリズナーNo.6』のNo.2の役割を果たすのが、凹村に戻り自ら日常の檻に閉じ籠ることを選んだ女教師。
しかしある日、物体X(バラード的鉱物でも有り、モノリスでもある)は飛び立ってしまう。村が元の日常に戻ってしまうことを嘆く凹沢。しかし、凹村の外の世界では侵略や暴動が起こっていた。これはあくまで凹村の外の世界の話で、クールなハジメだけがそれを知っている。しかし、ここにいれば世界は何も変わらないと悟るハジメ。外の世界の変化には、女教師も薄々感づいていた。
外に出ていっても、現状は変わらないというハジメの世界観が正しいと思う女教師だったが、凹沢に対し、戦場は凹村の外にあることを告げる。東京の高校への進学*1を決意する凹沢。
村の外で戦争がはじまっていることを知っているハジメは凹沢の東京行きに反対し、2人は殴り合いのケンカをする。そんな折、再び物体Xが落ちてくる。そこに戦闘機が飛来し、物体Xと交戦する。その戦闘機が自衛隊機でないことに気付き、認識と異なる事態に驚くハジメ。もはや、どちらがインベーダーなのかを見失うが、どっちでもいいやと開き直るカヨ*2。凹村唯一の文化スポット“TATSUYA”は壊滅する。
2ヵ月後。卒業を迎えた凹沢は東京へ向かう。しかし、東京は廃墟と化している。エピローグでは崩れ落ちる六本木ヒルズが描かれる。

“裏”日刊工業新聞!!の3月24日の日記に感想が載っている。

ひとり東京へと思いを馳せる凹沢と彼をたきつける女教師のアグレッシブさに、僕たちもミニマムな場所にこもってないで、立ち直って歩き出さななきゃって焦らされるもしれないけれど、そんな前向きさは多分不要。挙げ句にたどり着いた世界の砕け散った様、でもってそんな世界で凹村と変わらない脳天気さを見せる凹沢の姿に深いことは考えない、あっけらかんと生きてりゃ楽しい終末を迎えられるかもって思えて来る。
主人公の3人の中学生が、それぞれに違う現状への対処法を持っており、現代人の生き方も大方この3つに分類できる。

  • 情報に誰より深く触れながら、村の外のこととして接触を拒むタイプ=凹伴ハジメ
  • とにかく現状について追求することなく、今を楽しむタイプ=凹坂カヨ

この2つは、どちらも抱えた問題から逃避するということで共通するが、もうひとつの凹沢タイプは逃げずに向き合うというタイプ。この物語では、凹沢だけが村の外に出て行き、物語の始まりの時点から最期にいたるまでに変化を遂げる。だから主人公の外へ向かう姿勢を肯定しているお話だと思うんだけど、“裏”日刊工業さんは、どちらかというと否定派のようで・・・・。エピローグにある見開きのモノローグを素直に受け止めるとそういう解釈もおかしくはない。どっちなんだろう?
岡崎京子の『リバーズ・エッジ』と読み比べてみようと思っているんだけど、部屋の奥深くに仕舞ってあるので、それはまた今度・・・・。

*1:この物語における“戦争”は“受験戦争”の意も含まれる?

*2:この辺りは、アメリカが現実に抱える戦争の暗喩?