頭文字D 地球に魂を引かれない者たち

先日、松戸のガンダムミュージアムを訪れた際に考えていたことがずっと引っかかっていたことがひとつ。
1970年代、ティモシー・リアリーはLSDに変わる新たな理想郷として、スペース・コロニーの研究に傾倒していった。スペースコロニーは、ドラッグとセックスによるユートピアの設立の道を立たれたヒッピーの残党たちが辿りついた夢だった。限られた資源、食料を弱肉強食で奪い合うのではなく、自給自足で賄う理想郷。
このコロニーを舞台にし、宇宙移民たちの戦争を描いた『機動戦士ガンダム』という物語はコロニー(サイド3)の政治的な独立(ユートピアの実現)により終結する・・・・。つまりガンダムはヒッピーのやぶれた夢のさきにある物語だったりする。
ところで、僕がガンダムミュージアムで考えていたのは、ガンダムでは無く『頭文字D』の話。
豆腐屋の1人息子、藤原拓海は高校生ながら家業の配達を手伝うことで峠の運転テクニックを身につけていた。ある日、拓海は走り屋たちが繰り広げる峠での対抗戦に担ぎ出され勝利を収める。拓海は走り屋としての自覚の無いまま、峠レースの世界に巻き込まれていく。
この物語の舞台は群馬。群馬最速をめざす走り屋たちが各自のイデオロギーを持ち(ランエボ最強論、アンチドリフト論、サーキットを制すものは峠も制す、など)生活を営む。そして、その宇宙は埼玉、栃木など北関東圏に広がっていくが、決して東京は出てこない。それどころか、この物語から東京は抜け落ちている。皆が自分の住む街(というか峠か)に誇りを持ち、そこで一番の走り屋を尊敬する。地球に住むもの、地球育ちを阻害の対象とするガンダム的にいうと、東京は地球にあたる。この舞台設定はスペースコロニー的なユートピアなのだ。
ガンダム頭文字Dの物語は酷似している。だって、拓海のライバルである高橋涼介は“赤城の白い彗星”の異名を持つ走り屋なのだ。無自覚のまま戦いに巻き込まれる主人公。母親の不在。父の手による英才教育。スカート付きの敵(ランエボのこと!)。そしてユートピアをめぐる戦争・・・etc。
ヤングマガジンの連載では、拓海と涼介はチームを組み、“プロジェクトD”の名の下に県外遠征を行なっている。このプロジェクトDの行き着く先は東京制圧なのではないか? そうするってえと、アムロ・レイシャア・アズナブルが共闘する逆シャアなのでは・・・・? しげの秀一は富野チルドレンで、頭文字Dがポストヒッピー文化な話、というのはあまりにガンダム原理主義な妄想?
こんなくだらない妄想を仕事の合間に考えてたりするから、なかなかYahoo!BBの個人情報漏洩の原稿仕事が進まないのであった・・・。・・。