「まとめ」問題

あの記事に対して「まとめ」とか言ってる人多いけど、わかりやすく書いていることと「まとめ」はまったく違うということを根本的に理解してない人多すぎるね。あれがはてブ脳か。
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その気持ちはよくわかる。
僕は去年『タイアップの歌謡史』という本を書いたんだけど、やっぱり「まとめ」だとか「事実を羅列しただけ」とかいう感想が、ブログやミクシーのレビューなどに書かれてるんだけど、そもそも歴史の本を文献抜きで書くと、それは伝奇の類になる。当然、文献を提示して羅列する作業をすることになる。
 
『タイアップの歌謡史』の場合は、メディア・広告と音楽の関係性を軸にした歌謡史の本で、書いた側の心意気としては、これまで書かれた歌謡史の常識をひとつひとつ、ひっくり返す作業を行ったつもり。だけど、やっぱりそれでも根拠となるのは、過去の文献なわけで。その取捨選択の作業を行うのが、著者の仕事となる。
例えば、僕はこの本の冒頭で、東京音頭の資料として、平岡正明の本の一説を取りあげている。これは研究論文としてはおそらくアウトな領域なわけで、これを冒頭に持ってくることは、「きわきわすれすれの歴史の本ですよ」という宣言のつもりだった。だから、歴史の本としての信憑性が低い*1と批判されるならともかく、「事実の羅列」と批判されてしまうのはどうかと思う。
また、「ただ時系列に並べただけ」的な感想もあるんだけど、それもかなり誤解。映画、ラジオ、テレビ(テレビCM黎明期、イメージソング期、タイアップ期)、現代、とメディア史に沿うように、かなり意図的に取りあげるトピックを操作している。あれがただ広告音楽史のトピックを時系列に並べたものと読めるのであれば、それは著者のマジックにはまりすぎだ。

というようなことが、ここ一年くらいぼやきたかったけど溜め込んできたこと。

タイアップの歌謡史 (新書y)

タイアップの歌謡史 (新書y)

*1:文献選択の部分の妥当性ということ。これが歴史研究の肝となる部分。