その3

前回=id:gotanda6:20070330:motown2

高校を中退したベリー・ゴーディJRはボクサーになった。
NBAMLBで黒人が活躍するようになるのはまだまだ先の時代の話。1940年代の黒人少年がスポーツで富を得るには、ボクシングが早道だった。ジェームス・ブラウンも自伝の中で、少年時代には得意のサウスポーでセミプロ相手にならしたと自慢している。

黒人で2番目にヘビー級チャンピオンに輝いたジョー・ルイスはデトロイト出身。アドルフ・ヒトラーの「アメリカを叩きのめせ」という命を受けてアメリカにやって来たボクサー、マックス・シュメリングを打ち破ったルイスは、最初の黒人のヒーローになった。

そのルイスが、ゴーディJRたちデトロイトの少年たちにとっての格別なヒーローだったことは間違いない。


ゴーディJrのプロボクサーとしての戦績は悪くなかったようだが、チャンピオンに挑戦するような機会は訪れないまま、兵役に就くことになった。2年の兵役を終え、24歳になったゴーディJRは19歳のセルマ・ルイーズと結婚。ゴーディJRは実家の印刷・建築の仕事を手伝って暮らすようになるが、それは彼の望む生活ではなかった。
そんな時期(1953年)のゴーディJRが出会ったのがビリー・ホリデイのステージだった。麻薬で逮捕歴のある彼女はニューヨークのクラブで歌うことができず、過酷なコンサートツアーで日々の糧を得ていた。

ゴーディJrはモダンジャズに夢中になり、親の金を借りてビバップ専門のレコード店“3Dレコード・マート”を開店する。しかしレコード屋は流行らなかった。当時のビバップはニューヨークの先端の音楽であり、デトロイトの労働者たちはもっぱら、南部のブルースマンたちががなるブルースのレコードを聞いていたのだ。

1955年、二人の子どもを授かっていたにも関わらず、ゴーディJRのレコード店はつぶれてしまう。この年は、ビバップの生みの親であるチャーリー・パーカーが死んでいる。そういうものだ。
職を失ったゴーディJRは、やむを得ずフォード社の組立工場に就職する。ベリー・ゴーディJR、25歳の春だった。

モータウン・ミュージック

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