『頭文字D』とアンチグローバリズム

「ヒロインのキャラがイマイチ不明確でなんでそういう事になってんのか良くわかんないし。」
http://d.hatena.ne.jp/kuwa/20050924/p4

「しかし、鈴木杏が劇中で行っている援助交際(?)っていうのが、モノスゴイ謎の行動だったんだけど、原作でああなんだろうか?」
http://d.hatena.ne.jp/throwS/20050923#p1

映画版の『頭文字D』のヒロインについて、上のような疑問の声があがっている。もっともなご指摘。
基本的にヒロインの援助交際という行動は原作のままなんだけど、この鈴木杏が演じた「なつき」っていう女の子は、原作のマンガではヒロインというより、むしろ敵役なのに映画では無理矢理ふつうのヒロインに仕立て上げられたという感じ。

このなつきという登場人物を軸に頭文字Dという物語を考え直してみる。まず重要なのは、なつきは頭文字Dの世界で“東京の引力に魂を引かれている”(ガンダム的表現)唯一の人物だということ。
主人公の拓海と友人の樹はGSのアルバイトで拓海の父親は豆腐屋さんだったりと、みな地域に根付いた職について地元(群馬)を愛する人々。ここには都会人=サラリーマンは一切出てこない。これはヤンキー漫画全般に根付いている概念なんだけど、『頭文字D』はアンチ東京、アンチ中央集権的な思想がベースにある物語だ。登場人物はみな東京にあこがれるどころか、東京という存在すらないことのように描かれている。
そんな中“なつき”だけは高校卒業後に東京へ進学する異物として描かれる。
なつきの援助交際中の会話に“みんなアルバイトとかしていて大変なのに、私だけこんなにもらっていいのかな?”みたいな台詞が(たしか映画にも)あったと思うんだけど、これは「みんなは地域の役に立つ仕事をし、その対価を得ているけど私は違う」ということに気付き始めたことを示している。最後になつきが援交をやめるのは、拓海を選ぶということ以上に同時に地元に根付いた生き方を選んだということ(原作では地元のファーストフード店でバイトを始める)。
援交の男がセルシオやシーマでなくメルセデスに乗っているのも、走り屋たちが皆国産車であることと対比(ここでは地元←→東京の構図を国産←→外車に置き換えているけど)させるため。
つまり作者はこのなつきという人物を、ヒロインとしてではなく対立概念として描いているのだ。早い話が敵キャラ。だから拓海となつきがくっついちゃうと物語は成立しないというわけ。映画のラストが不明瞭なのは、そういう苦し紛れな事情から来ている。
原作のマンガでは高校卒業後、地元で就職を選ぶ拓海は東京に進学するなつきと離別する。これは『木綿のハンカチーフ』なんかに代表される、“都会に旅発つ男を残された女が見送る”という従来っていうか戦後資本主義社会的な物語の典型の真逆だ。反グローバリズム―新しいユートピアとしての博愛
上ではこの物語で敵にされている概念を“東京”としたけど、その“東京”には“流行”とか“エコロジー”とか“外車”とか“モダニズム”とか、いろんなものが含まれてる。もちろん“援助交際”も含まれるし、あと、なんというかもっといっちゃうとアンチ・グローバリズム
なんでその“アンチ・グローバリズム”とやらが香港資本で映画化されてんだ? といわれるとぐーの音も出ないんだけど。