僕が取材をしなかった理由

小飼弾氏には、これまで自著をブログで取り上げてもらっていて、
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50741767.html
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
そのたび、

資料をまとめただけじゃない?
本書には、取材はない。
いわゆる現場の一次資料

と、指摘され続けてきたのだけど、『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』に至っては、ついに取材がほぼゼロになった。
郊外書店やショッピングモールを巡ったが、あれは取材と言うよりも日常生活や趣味の領域だ。

弾氏の書評に反発したわけではないのだが、途中で完全に取材を辞めた。

理由は3つ。

  • すでに取材主体で書かれたケータイ小説論が出ていたから
  • ケータイ小説作家がほぼ取材に応じないから
  • 取材からわかることが少ないことがわかったから

最初の2つには言い訳も含まれる。重要なのは3つ目。
取材を辞める前に会ったケータイ小説の編集者は、そこに書かれていることが事実だと信じていた。これは、のちに会ったケータイ小説の生みの親である編集者もそうだったし、自称仕掛け人も『ケータイ小説活字革命論―新世代へのマーケティング術 (角川SSC新書)』の中でそう書いている。
この時点で、これは現場に当たっても仕方がない、このまま取材を続けても核心にたどり着くことはないな、と直感的に思ったのだ。
ケータイ小説に書かれていることは、フィクションである”という前提で本を書くというのは、かなり初期段階で心に決めていた。

また、ケータイ小説作家に実際に会って話しているジャーナリストの佐々木俊尚も、これを“ノンフィクション”と認めるような記事を書いている(まあ、この記事は半分パブみたいなものではあるのとはいえ)。腕利きの佐々木がそう思うくらいなら、取材がうまくないな自分がジャーナリスト的な手法でケータイ小説に探りを入れても、これは必ず間違うなと確信した。

なんとなく、今回の本で取材をしなかった理由はブログに書いておきたかったので書いてみました。